幼少の頃、ばあちゃんと一緒にケンタッキーに行った記憶を思い出したという話です。
ばあちゃんと一緒にケンタッキーへ・・・
年の瀬ということもあり、身だしなみを整えるため美容室へと車通りの多い道路を運転していたところ、見事に渋滞にハマってしまい身動きが取れない状況に。
やることもないのでボーっと車窓から外を眺めていると、ふとケンタッキーのお店が目に入りました。
「そういえばこのケンタッキー、昔ばあちゃんに連れてもらってきたことあるなあ」
おそらく幼稚園か小学校低学年の頃か・・・。当時訳あって両親と外食を食べに行くことが少なかった私は、よくじいちゃんばあちゃんにレストランなどへ外食に連れていってもらっていました。
ケンタッキーもそのお店のひとつ。
当時まだ幼かった私はケンタッキーの骨付きチキンの肉が固くて噛み切れず、サクサクの皮の部分(一番おいしいとこ!」)のみを食べて肉の身の部分は残すという贅沢食いをしていました。
そして皮だけを食べて肉を食べないというハンパなく贅沢な食べ方をしている私を見て、笑うばあちゃんの姿。その光景をふと思い出したのです。
ばあちゃんにとって私はたった一人の孫でした。そのたった一人の孫と外食先でいろいろなおいしいものを一緒に食べるのが、きっとばあちゃんの楽しみだったのでしょう。そして一生懸命チキンを食べている私を見て、嬉しさとその可愛さから笑っていたのだと思います。
その時の光景やばあちゃんの笑っていた姿を思い出し、ふと自分に問いました。
「あの時一生懸命チキンを食べていた幼い孫が、今大人になって毎日溜め息をつきながら「行きたくない」と青い顔で出勤し、ボロ雑巾のように働いている様子を見て、ばあちゃんはどう感じるだろうか・・・」
ばあちゃんは数年前に他界しているため、今その答えを直接聞くことはできません。
でも何となく分かります。
可哀想などといった他人を見る感情ではなく、おそらく自分のことのように「やるせない」「切ない」といった、言葉にしづらく腹の奥を突かれるような気持ちになるはず。
私自身も幼い子供がいるため、その感情は幾ばくか想像が出来ます。
一緒にご飯を食べて遊んで笑いながら楽しい時間を過ごしている自分の子供が、将来就職して毎日辛い思いをしながら出勤している様子を見たら、本当に自分のことのように辛い気持ちになるでしょう。
辛さを乗り越えた先に道が開けるのであるなら励ましますが、そうでないなら・・・・確実に退職を勧めるでしょう。
ケンタッキーを眺めながらそんなことを考えているうちに、少し強い気持ちが芽生えました。
「今まで優しくしてくれた人たちのためにも、自分はやりたいことをやって楽しく生きていたい」
もちろん自分のために、自分が楽しく生きるために、やりたいことをやって生きていきたいというのが前提です。
ですが、ケンタッキーでチキンを食べる姿を見ていたばあちゃん、そしてこれまで自分に優しくしてくれた家族や先生、友人のためにも、こんな溜め息ばかりついている毎日は送るべきではない。そう思いました。
自分の好きな人が楽しく生きていないのはやっぱり辛いでしょう。
自分のため、そして自分に優しくしてくれた人たちのためにも、胸を張って堂々としていられるような好きなことを仕事にして楽しく生きたい。
心からそう思います。
たまたま通りがかったケンタッキーでしたが、昔の思い出が少し自分の気持ちを強くしてくれたように感じます。
皆さんも幼少の頃に誰かに優しくしてもらった経験はありますか?
そして、その時優しくしてくれた相手が、今の皆さんの生きる姿を見てどう感じるでしょうか。
これまで優しくしてくれたたくさんの人たちに、胸を張って自分の「いま」を話すことができるように生きていたいですね。
そんなことを考えさせてくれたばあちゃんとのケンタッキーの思い出でした。
人生を変えるきっかけはどこに転がっているか分かりません。今が楽しくなくても、これからが楽しければいいのだと思います。過去は変えられなくても未来は変えられるんですから。
少しでも多くの人が、辛い思いから抜け出して楽しい毎日を過ごせますように。
ではでは^^